父のこと

令和2年7月13日、父が逝った。享年86歳であった。

父はもともと電気設備関係の技師で、釧路市役所に勤めていた。私が入学した釧路市立城山小学校の新築にも関わっていたようで、子供心に少し誇らしかった。

中学時代から大学時代にかけて、父と息子の間にはありがちと思うが、父に反発してほとんど口も聞かない時代があった。そうは言っても、私の司法試験受験浪人時代を経済的にバックアップしてくれたのは父であり、5年余計にかかったが特に文句をいわれた記憶は無い。父としては私に医師になってほしかったようにも思うが、私自身、血を見たり注射の針が刺さるのも正視できないので、無理であった。

父はヘビースモーカーであり、「わかば」や「ロングピース」を日に何十本も吸っていた。そのためもあってか、晩年は肺気腫を患い、酸素ボンベが欠かせない生活であった。

数年前から衰えが見え始め、時々私の携帯に電話が掛かってくるようになった。それまでは、滅多に釧路に行くことはなかったが、去年は何度か釧路に行った。最後に会ったのは今年1月の末である。地元の竹老園というそば屋でそばを食った。

その後、コロナの騒ぎやら、私自身の入院・手術やらで釧路に行くことはできなかった。

7月4日、父が入所している施設から父が入院したとの連絡があった。その後、父からも電話が掛かってきたが、思いの外元気そうで少し安心した。

ところが、7月7日になって今度は病院の医師から電話が来て、父の症状に改善の見込みがないとの話であった。

私担当の裁判員裁判が7月13日から始まることになっており、この時点では既に裁判員モードに入っていた。「いま、父にもしものことがあっても、すぐには釧路に駆けつけられない。」そんな思いであった。週末の11日、12日病院からも連絡が無かったので、「裁判員裁判が終わるまでもってくれるかな?」そんな思いもあった。

裁判員裁判初日の13日早朝、父の訃報を聞いた。今回の裁判員裁判はコロナで日程が延び延びになっている上、市民の方も8人参加するので、私の個人的都合でキャンセルというわけにはいかない。結局、お通夜を審理が終わる16日まで延ばしてもらい、審理が終わってから釧路に駆けつけた。

裁判員裁判の結果は惨敗。(一部)無罪判決を父に手向けることはできなかった。しかし、法廷弁護士としてやりきったとの思いはある。この仕事をしているので、親の死に目には遭えないと覚悟はしていたが、ちょっとだけ寂しかった。

呼吸器系の病気なので最期は苦しかったろうね。お疲れ様。ありがとう。

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コメント: 1
  • #1

    藤井薫 (水曜日, 26 8月 2020 07:54)

    施設でも毎日、お父さんは幼かった先生のことを思い出しておられたはずです。
    離れていて寂しかったかもしれませんが、さぞ自慢の息子だったことでしょう。
    親の死に目は誰しもが通る道。
    お心落としのことと拝察しますが、先生こそご自愛ください。
    大阪より。