ホントに殺ったの?

 舞鶴女子高生殺人事件で無罪判決が確定した男性が殺人未遂で逮捕されたニュースが、大きく報道されている。舞鶴の女子高生のご遺族や今回の事件の被害者、関係者の方々が「あいつが舞鶴の女子高生を殺したんだ。」とか「あのとき有罪にしておけば今回の悲劇は起こらなかった。」と考えるのはよく分かるし、私が遺族や関係者であってもそのように考えると思う。

 しかし、マスコミの一部の論調が上記のようなものであるのには、賛成できない。日本の法律では再審でも無罪を有罪にすることはできないことになっているし(憲法39条-一事不再理、刑事訴訟法452条-不利益再審の禁止)、特殊な手口の詐欺など一部の例外を除けば前科があることを有罪の認定のための証拠とすることもできない。まして、この事件はまだ逮捕段階であり、被疑者には無罪の推定が働いているのである。

 今回の事件で、いかにも今の日本の刑事裁判の制度に欠陥があるかのような報道をするのは適当でないように思う。

 刑事訴訟法の背景には、たとえ犯人を取り逃がしたとしても、絶対に無罪の人を有罪としてはならないという考え方があり、一事不再理や無罪推定の原則もこの考え方に基づいている。このような制度をもってしても足利事件や袴田事件のようなえん罪事件が起きているのが現状である。

 えん罪が起きてしまったことで捜査や裁判のあり方を問題にするのとは、今回の一部報道は全く方向性が違っているような気がする。今回の事件は大変不幸な事件だが、刑事裁判の制度が犯人を取り逃してもえん罪を絶対に出さないという仕組みになっている以上、仕方がないといわざるを得ない。

 「犯人がホントにやったのかどうか」は、それこそ神のみぞ知ることであって、裁判官、検察官、警察官、弁護人、被害者、犯人の家族など刑事裁判の関係者には実は分からないし、それこそ犯人自身だって分からない場合(精神疾患などの場合や思い違いがある場合)があると思う。だからこそ、上記のような一事不再理や無罪推定の考え方がとられているのである。

 私も、多くの刑事事件を取り扱ってきたが、担当する被疑者、被告人(以下、犯人)が本当のところ犯罪を犯したかどうか分からないことが多い。というか、原則として分からない。もちろん、本人が認めていれば「おそらくやっているのだろう」と思うし、有罪をしめす他の証拠もあるので、有罪を前提に、起訴猶予、執行猶予や軽い刑を求めて情状の弁護活動をする。しかし、その場合でも犯人がすすんで身代わりになっている場合や、「どうせ罰金で済むのだから、長期間身柄拘束されるより認めた方がいい。」と考えていることだってあり得る。その場合に、弁護人が、犯人が本当にやっているか分かるかといえば、ほとんどの場合分からないと思う。私の経験上、「本当はやってないが、執行猶予になると思うので認めることにする。」といって認めた人が1人だけいるが、この人が本当にやったのかどうかは、結局のところ分からなかった。

 犯人が認めている場合でさえそうなのだから、犯人が否認している場合、「犯人がホントにやったかどうか」など、全く分からない。頭からやっているなどと考えては弁護活動などできないので、犯人の言い分を何度も聞いて、どうして犯人に不利な証拠があるのか犯人と一緒に考え、犯人に有利な証拠がないか探し、犯人に有利な事件の説明を組み立てていく作業を地道に続けるしかない。そうした作業を続けているとたまに、「実はやってました」と言い出す犯人もいる。 

 覚せい剤の事件でおしっこから覚せい剤が検出されると、ほとんどの場合有罪になるけれども、私の先輩や友人の弁護士が、おしっこから覚せい剤が検出されたにもかかわらず無罪を獲得した例は2つある。誰かに混ぜられたとか、知らないうちに飲まされたという弁解が信用された例である。

 このように、一見誰が見ても有罪と思えるような事件でも、実は無罪ということがあるので、刑事裁判の仕組みは、一事不再理や無罪推定の考え方をとっているのである。

 舞鶴女子高生殺人事件の無罪判決も目撃証言や自白の信用性を詳しく検討し被告人を犯人とする証拠が不十分であったから刑事裁判の原則通り無罪としたものである。それを、いまさら間違いだったかのように報道するのは、刑事裁判の根本原則を全く理解していないように思われる。